2022/04/25(月)
#1129 世界一遅い「ピカチュウの逆襲」レビュー
らくがきにっき

 念願の「ピカチュウの逆襲」を入手し、読み終えた。

 これは、1997年に発生したポケモンショックを題材として刊行された、20年以上前の書籍だ。
 異様で怪しげな存在感を放つ表紙とタイトル。当時の私は、新聞の小さな広告で見つけたこの本を是が非でも手に入れたかった。しかし発行部数が希少だったのか、どの書店でも取り扱っておらず入手できなかった。

 その後もAmazonでは中古品でも数千〜数万円。Web上でのレビューもほとんど見つからない。ますます怪しい。一体どんな本なのだろう――という思いを抱き続けて約20年。

 先日Amazonをチェックすると、この「ピカチュウの逆襲」が700円足らずで出品されていた。何がきっかけか不明だが値崩れしていた。状態は中古で「可」とのことだが、全く問題ない。一も二も無く購入した。

 数日後に本が届き、手に取った。20年越しの夢が叶い、興奮と感動を覚えた。記憶が曖昧だが少し漏らしたかもしれない。

 現物は全体的に茶色く色褪せておりシミも多い。何しろ20年以上前の書籍だ、無理もない。むしろヴィンテージと表現すべきだろう。まぁ読む分には支障ない。

 ピカチュウの逆襲
 確かに「可」である。


 さっそく本をめくり、数日かけて読み終えた。
 なるほど、こういう本だったか……という感想だ。

 今回は謎に満ちたこの本をレビューしてみようと思う。

 最初に言っておくと、映画「ミュウツーの逆襲」とは全く関係無い。時期的に映画公開よりこの本の発行が先であり、少なくとも本文においてパロディを意識した箇所は存在しない。


 プロローグ


 虫の知らせとでもいうのだろうか。五歳になる娘に例の「ピカチュウ、カイリュー……」の数え唄を紙に書いてもらって、それを暗記していこうとしていた。

 本書はこんな一文で始まる。当時大流行していた「ポケモン言えるかな?」を「数え唄」と呼ぶセンス、そしてこれから起こる事件をも想像させる、何とも引き付けられる冒頭ではないか。

 だがこの本は小説でも随筆でも自伝でも無い。その内容をじっくりご紹介しよう。


 著書は「宮川俊彦」氏


 宮川俊彦(みやがわとしひこ)氏は、教育研究機関に所属して大学教授、評論家などを務めておられた、作文や表現教育の第一人者。ここでは宮川先生とお呼びする。

 2014年に60歳の若さで亡くなられているが、「ピカチュウの逆襲」以外にも多数著書を発行されており、多くが作文に関するものである(Amazonリンク:宮川俊彦の作品一覧 )。
 作文・評論文と表現、技法の指導が中心の先生の著作において、本書のタイトルはかなり異色に映る。

 宮川先生自身はポケモンとの特別な繋がりは無いと思われる。ただ、事件が発生する以前に好奇心からポケモンについても興味を抱き、冒頭のようにご自身の娘さんに色々教えてもらっていたようだ。


 ポケモンショックの背景と教訓


 本書の副題は「子どもたちはポケモンパニックをどう見たか」。

 内容としては、紙面の9割以上が小中学生のポケモンショックに関する作文で構成されている。これらの作文は、ポケモンショックの発生とアニメの放送中止を受けて、学校や研究会で宮川先生の生徒たちが書いたものだ。1つ1つの作文に添削や解説は無く、子どもたちの表現を尊重する意図で、原文をほぼそのまま掲載している。

 宮川先生自身は、各章で2〜3ページほど文章を綴ってはいるが、放送中止に賛成とか子どもを守るべき、といったポケモンショック自体への意見は述べてはいない。各テーマに基づく自身の考えや、子どもたちとのやり取りを補足的に述べるに留まっている。

 全体的に本書は、ポケモンショックがいかにして発生し、放送中止に至った事実から子どもが何を感じ考えたか。そして大人が何を教訓として受け取るべきか、といったことに主眼が置かれている。その探求の手段として作文を用いている。

 当時の時代背景は、1997年。「ポケモン」というセンセーショナルな文化に子どもたちが沸き立つ中で発生したポケモンショック。ポケモンに生身で触れていた当時の子どもたちの、騒動直後の率直な意見。肯定も否定も中立も、全てが作文の形式でそのまま載せられている。作文集であり、子ども視点の社会に対する論文集といった趣だ。


 各章のタイトル


 この本は以下の8章で構成されている。

 ・ポケットモンスター(ポケモン)とは
 ・ポケモンの日
 ・ポケモンの周辺
 ・38話を再検証した
 ・モンスターを探せ
 ・ポケモン文化の探究
 ・ポケモン放映中止
 ・まぼろし


 それぞれのテーマに近い作文が掲載されている。これは宮川先生が授業や研究会の中で子どもたちに考えさせたテーマであるようだ。

 章を進むごとに、少しずつ核心に迫るような構成になっている。

 その時どうだったか、放送を見たか。
 ポケモンに熱中するのはなぜか。日常とは何か。
 38話で問題なのは、放送する側か、見る側か、それ以外か。
 モンスターとは何か。動物、道具、非実体、見えないもの、人間そのもの。
 ポケモンという文化にすがる子どもと、取り上げる大人。
 アニメの放映中止から何を学び、感じ取るか。
 子ども達が見た、または考えた「まぼろし」とは。

 もうお分かりだろうが……うん。めちゃくちゃ真面目な本だわコレ。

 正直に言えば、少し興味本位でこの本を入手した向きもあった。騒動に便乗した怪しい書籍かと疑っていた。だが蓋を開ければ大真面目過ぎる本だった。著者の宮川先生に申し訳なく思う。


 子どもたちの意見


 繰り返しになるが、本書のテーマは「ポケモンショックがどうだったか」「アニメ中止に賛成か反対か」といった観点にとどまらず、ポケモンショックを通じて、子どもたちと子どもたちを取り巻く社会がどのようなものかを考えることを目的としている。

 ・ポケモンが好き派

 単純に、事件はあったけどポケモンが好きだ、放送中止はいやだという意見。私たち大人のポケモンファンが聞いて一番安心する意見かも知れない。子どもたちにポケモンがそのような存在であって欲しい、とでも言うか。

 私はその時出かけていました。(中略)見てたら、今ごろにゅういんしてたかもしれません。でもやっぱりポケモン大すき。(小2)

 あのへんな光で何人もたおれたからって、おもしろいまんがを中止にしてしまうなんてしんじれられない。(小3)



 ・大人がおかしい派

 ポケモンのアニメを放送中止にした大人たちへの意見。子どもに良かれと思って取り上げたり、逆に与えたり、それは子どものためではなく、大人自身のためではないか。サンタクロースはなぜ無償でプレゼントをくれるのか。子どもたちから大人へ違和感と疑問を投げかけている。

 ポケモンがたった600人のためにやめなんてすごくいやです。まだ見たいこどももいるっていうのに大人にきめられてたまんないです。(小3)

 サンタは、ぼくたちまずしくない人たちにプレゼントをあげるのか。なぜ、まずしい人たちにはあげないのか、ぎもんに思う。(小5)

 よく、おとなは「〜してあげる」というが、それが本当に正解なのだろうか、子供はいろいろ体験して、幸せ、自由をつかみとるのではないだろうか、と思います。(中1)



 ・私たちがおかしい派

 ポケモンにのめりこむ子どもたち自身に原因を見出す意見。物理的な距離だけでなく、心理的な距離が近くなった結果だという見方。また、流行や人間関係からポケモンに興じる、その動機に違和感を覚える子ども。

 見方がおかしいということもあるんじゃないか。(中略)もしクライマックスの時以外にその放送を流しても、そこまでえいきょうは出なかったんではないか。(小4)

 私はポケモンパニックとはアニメにだんだんのめりこんでいき、クライマックスの十分間には、もうテレビとの距離は1メートルもなくなっているのだと思う。(小5)

 もしかしたら僕たちは、「ポケモン」という物に遊ばれているんじゃないか。(小5)



 ・テレビ局がおかしい派

 そもそもポケモンよりも有害な番組が他にあるだろう、ポケモンだけがなぜ中止されるのかという意見。

 ポケモンを中止するよりもこわい人が殺されるばんぐみを中止させた方がいいと思う。(小5)

 テレビには、殺人事件やエイリアンの番組など、アニメよりもっとしげきを受けるのが沢山あるから、ただのアニメの色や光で何人もたおれて、にん気だった番組がいっきになくなるのは、おかしい。(小4)



 ・社会がおかしい派

 より広い視点で、私たちを取り巻く社会、コミュニティにおける他者との距離、人間関係に言及して、警鐘を鳴らしている意見。

 わざわざ刺激を求めなければならない社会全体が、今一番危険だと言えないだろうか。刺激を求めることによって自分を傷つける結果を得てしまうような刺激は、本来私達が求めているものではないと思う。(高1)

 この世の魔物は形にはあらわれない。つまり形にはあらわれないもので、人間の心をあやつっているものではないだろうか。(小6)



 ・ポケモンがおかしい派

 ポケモンというコンテンツ自体に違和感を覚え、指摘する意見。また、ポケモンを前提としたコミュニティを俯瞰して見た意見。

 ポケモンはポケットモンスターをモンスターボールで捕まえる。それは人が人をゆうかいまたは殺しているんじゃないかーと思う。(小5)

 現代の子供達は皆「つかれている」のである。(中略)子供達は、仲間をつくり、集団の中でみんなと同じ事をしていようと思い、「自分」をけしていってしまうのだ。(中略)「ポケットモンスター」は、ますまず子供をつかれさせてしまうのではないか。(中1)

 ポケモンやたまごっちも、人間関係をつくる物だと思う。(中略)これを見なければ、絶対にいけない、という気持ちと、興奮しているのが頂点まで達してしまったからかもしれない。人間関係はものがないと成り立たないのかもしれない。(小6)


 タイトルの意味


 このように、実に様々な意見がある。子どもと侮るなかれ、ハッとさせられる意見も少なくない。

 そして最も気になるのが、「ピカチュウの逆襲」というタイトル。なぜこんなタイトルを付けたのか。

 直接的に言及している個所は存在しないが、手掛かりと思われる箇所が8番目の章にあたる「まぼろし」の項、著者の宮川先生による以下の記載だ。

 ポケモンはただの嘘ごとではなくなっている。既にそのパワーは社会現象まで引き起こしている。ウソごとが実体化していくのだ。誰がそれをもたらしたのだろうか。ポケモンは本当にモンスターになっていった。力を持っていった。それを誇示した。そのために反撃が始まった。

 「反撃」というキーワードが用いられているこの部分は、タイトルにつながる核心の1つであろう。

 また、タイトルに繋がるテーマを持つ子どもたちの作文も多くある。

 ポケモンがブームでなかったら、こんな事件はなかったはずだ。(小5)

 「ポケモンパニック」などというが、同士打ちではないか。自分の造りあげた“モンスター”に自分がやられてどうする。(高1)

 ポケモンパニックはポケモンというまぼろしを本当だと思い、げんじつとまぼろしがパニックしたのではないか。(小4)

 学校では、ポケモンを知らないと仲間はずれ。ポケモンのアニメを見ていないと変な目で見られる。(中略)これが裏のモンスターではないだろうか。(中1)

 ポケモンや、たまごっち、などの人気がすばらしくよかった物はだいたいパニックがおこる。(中略)それを作ったのは自分自身だ。ポケモンパニックを引き起こしたのは君の気に入った心だったのだ。(小4)

 ポケモンを見てたおれた子供たちは、赤と青の光線だけではなく、そのコンピュータの中をそうぞうしてしまったのだ。(中略)でもまぼろしというのものは、子供たちにとっては、とても大切なものです。(小5)



 あたかも主従関係が逆転したかのごとくポケモン側が攻勢に転じたことが事件の一因と見て、タイトルに位置付けたのであろう。

 しかし、なぜ「ピカチュウ」の逆襲なのかは最後まで分からなかった。これならピカチュウではなく「ポケモンの逆襲」のほうが正しく思える。むしろ「ポリゴンの逆襲」のほうがまだ正しいと言える。この辺りは大人の事情だろうか。
 あまり言いすぎると私の身が危ない気がするので、この辺にしておこう。


 ポケモンGO問題を思い出す


 本書を読み解くうちに思い出されたのが、「ポケモンGO」の問題だ。最近でこそ落ち着いているが、人気に火が付き始めた頃は「歩きスマホ」「運転中のプレイ」「不法侵入」などが社会問題に発展した。

 当時のポケモンと現在のポケモンを並列で語るのは一考が必要であるが、ポケモンが再び「モンスター」になってしまった事例として、どうにもダブって見える。

 ポケモンショックから20年以上経ち、私たちは深い知性と適切な距離感を持って生きていかないと、歴史は繰り返されてしまう危険がある。そんなことを考えた。


 最後に


 以上が、1998年に発行された「ピカチュウの逆襲」のレビューである。

 想像以上に濃密な、考えさせられることの多い書籍だった。きっと20年以上前の私がこの本を入手していたとしても、内容はほとんど理解できなかっただろう。

 それにしても、これは「ピカチュウ」と名の付く商品史上、最もポケモングッズらしくないのは間違いない。


 ここで紹介した作文はほんの一部で、他にも多くの興味深い作文が掲載されている。Amazonでは現在も中古が販売されているので、興味がある方はぜひ購入を検討して欲しい。

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 ピカチュウの逆襲

 これはもはや石油ショックとかのほうのポケモンショックである。


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